百年物語

間嶋百年物語り 間嶋が歩んだ室蘭の1世紀

看板の無い豆腐店

間嶋豆富店のルーツは、北海道室蘭市が鉄鋼業で栄えていた大正五年にさかのぼります。雄大な立山連峰を望む富山県の氷見市から、 北海道へ夢を抱いて移り住んだのが、初代店主の 間嶋ツネ です。

創業店は、 鉄鋼業に携わる人々が暮らす輪西(わにし)地区の住宅街に設け、地域住民の食卓を支える程度の木綿豆腐、厚揚げ、がんもを店頭販売いたしました。一日に作る豆腐の量は、 早朝から薪(まき)レンガストーブを焚いて仕込んだ一回分のみ。それ以上は作らず、そのかわり毎日、天候や祝日にも関係なく同じ量、同じ味の木綿豆腐を作り続けました。 初代間嶋ツネの信条は「これ以下にはせず、これ以上は望まず」というものであり、卸や歩き売りさえも一切しなかったため間嶋豆富店には看板も必要なく、それでも 輪西の人々に重宝がられる繁盛店となりました。

初代の経営方針はこの後一世紀、女手中心による間嶋家で、じつに五世代に渡って守り続けられることになります。

創業から同じ場所、同じ方法で木綿豆腐を作り続け、後に 「室蘭一の老舗店」と呼ばれることになる間嶋の暖簾(のれん)は、

二代目店主 間嶋静子 へ受け継がれましたが、 時代は鉄鋼業の衰退が始まり、室蘭は不況の風が吹き付ける暗い時期に入りました。しかし もとから質素な商売をしてきた間嶋豆富店はこの時代に入っても、初代が築き上げた豆腐作りを頑なに守り続け、元気を無くしつつあった人々へ毎日、栄養面での応援をし続けました。


戦中戦後の間嶋

日本は、後の太平洋戦争に向かい 国中が軍事色を色濃くしていった時代に入り、 輪西の製鉄工場は北海道でも重要な軍需基地へと変貌しました。この施設があったからこそ、室蘭市は戦時中、北海道で唯一となる空襲を受け、数多くの命が失われた 悲劇の土地となりました。

この激動の時代に、三代目店主 間嶋たけ が暖簾(のれん)を受け取ったのです。国がこんな状態になっても・・・いや、こんな時代だからこそ、伝統の 暖簾をしっかり守り、家族を戦争で亡くしてゆく輪西の人々へ、栄養価の高い豆腐を作り続けようと奮闘したのですが、戦況の劣勢による"モノ不足"がたたり、 豆腐の原料である大豆の入手にも大変苦労を強いられました。

そして敗戦。北海道中が貧窮する中でも特に室蘭は、米軍からの空襲により何もかもが地獄絵のような状態からの再出発でした。 このとき間嶋家においても例外ではなく、家族の食にすら事欠く状況下にありながらも、輪西の人たちのため、薪窯(まきがま)の火を絶やすことは決してしませんでした。この奮闘は地域住民の生命線になったばかりではなく、 敗戦に屈しず毎日逞しく働き続ける三代目 たけ の姿そのものが、人々へ勇気と希望を与えました。

間嶋豆富店のある輪西は、 狭い路地に囲まれ住宅がひしめき合う場所ですが、敗戦直後のこの時代、豆腐を求めるお客さんの長蛇が何丁も先まで伸びる日が続いたという記録があります。

多彩な技能の開花

高度経済成長と共に四代目を継承した 間嶋定子 は、先代に同じく伝統の製法を受け継ぐ傍らで、着付けと書道を学び、現在は有名きもの学院の分校を持つ他に、成家として書道教室も開いています。

当ホームページの表紙に書かれた「百年豆富」の文字と店名は、四代目店主間嶋定子による直筆の書を使用しております(右参照)。


明治の懐かしい味を皆様へ

当店の経営は、創業から代々女店主により受け継がれ、各代とも孫を持つ年齢まで店頭で活躍して参りました。  そんな当店には昔も今も看板が無いこともあってか、店主そのものがトレードマークとなり、 どの代のときも近所の方々から「豆腐屋の婆さん」という呼び名で親しまれてきた歴史があります。 それは、 明治、大正から昭和の敗戦を潜り抜けながらも、 何も変えずに庶民の味を守り貫いてきたからだと考えております。

現在では、室蘭から遠く離れた場所にお住まいの方々がわざわざお立ち寄りくださり、店頭で豆腐や厚揚げをまとめ買いして下さるので、そうしたお客様にもよりお気軽に間嶋豆富をお届けしたく、この度始めて、新しい販路であるインターネットの世界に踏み込みました。しかし、豆腐の生産速度は大幅に上げませんし、 薪窯製法という伝統の木綿豆腐作りの工程も、大正五年のそれと全く同じです。

天然のにがりを使用し、伝統的な製法で仕上がる 間嶋百年豆富 は、現代のやわらかい豆腐にありがちな甘みはなく、しっかりとした歯ごたえの木綿豆腐です。

日本人が元来食べてきた、豆腐本来の味を、どうぞご賞味ください。